用語等の解説



桜花(おうか)


特攻を主目的とする第721海軍航空隊(通称「神雷部隊」)に所属していた特攻兵器。
飛行型の機体の前頭部には1,200kgの徹甲爆弾を備え、パイロットの操縦によって敵艦船に体当たりする兵器。
主に一式陸上攻撃機の下部につり下げられ、高度6,000m上空で切り離されたあとは自力の固形燃料ロケットを噴射(約9秒)し
ながら目標へ向かう。

香島・鹿島・鹿嶋 〜カシマの表記〜

  茨城城県鹿嶋市は平成7年に旧鹿島町と旧大野村が合併してしました。
当時、九州佐賀県に「鹿島市」がありましたので、同名をさけるために「鹿嶋市」となりました。
 ※同市名は特に規制があるわけではなく、現在、府中市(東京都と広県)、伊達市(北海道と福島県)の2通りが存在します。

「鹿嶋」は、公立関係の事業所についてはほぼこの名称になっています。合併以前からの事業所では「鹿島」を用いているほうが
多いでしょう。ですから、この鹿嶋市内おいて「鹿嶋」と「鹿島」が混在しているのが実態です。
 この名の大本となる鹿島神宮においてさえ、通常「鹿島」を用い、お守りは「鹿嶋」となっています。
 ※ ちなみにお札の「鹿嶋神宮」の「宮」の文字は、部屋を表す2つの「口」をつなぐ廊下「ノ」がありません。部屋をつなぐ
  廊下ができる時代に現在の「宮」に成ったとも云われています。

 古くは「香島」とあります。それぞれの出典をみてみましょう。
香島=721年成立の『常陸国風土記』には「天の香島の大神」とあります。また、「日の香島の宮」とあります。
鹿島=723年『続日本紀』には「鹿島郡」とあって、香島から鹿島へと替わった初見とされています。
   ※ただし、この『続日本紀』の写本によっては「鹿嶋郡」も見られます。
鹿嶋=927年『延喜式神名帳』には「鹿嶋神宮」とあります。この神名帳によって、神宮と呼ばれるお社は伊勢のほかに鹿島・
   香取の3神宮と定められました。それまでは、伊勢、石上の2神宮でした。
   また、人名として中臣氏の系図をさかのぼると「国摩大鹿嶋命(くなずのおおかしまのみこと)」という方がいます。
   ※『尊卑分脈』所載藤原氏系図の垂仁天皇代にあり、『常陸国風土記』にある巨狭山命(おおさやまのみこと)は、その子
    とされます。
ココシカでは、「鹿嶋」は市名及び事業所名に用いられていることを除けば、鹿島神宮の御祭神に関する内容に「鹿嶋」を用い、
この地域、鹿島灘と北浦に挟まれた鹿島台地とそのその周囲一帯の地域をさす名称として「鹿島」を用いています。



鎌足桜(かまたりざくら)

藤原鎌足公が母に関わる高倉観音(千葉)を訪れた際に挿したままにした桜の杖が根付いたものと云われています。
鹿島神宮の鹿園と城山公園にある鎌足桜は、2009年2月9日に木更津市長自らの植樹によって寄贈されたものです。
参考 木更津市鎌足桜保存会   鹿嶋デジタル博物館   鹿嶋市「まちの話題・写真館」 


軽野船・枯野船(かるの・かれのふね)

常陸風土記に「軽野・・流れ著く大船 長さ15丈 濶さ1丈餘り」とある。中国での1丈は3.3m。とすれば長さは45mにもなる。
淡海(おうみ)=天智天皇の時代に陸奥の船大工につくらせた船らしいとある。伊豆の軽野神社。軽野船または枯野船の記述。当て
字ならカヌーやガレーというのもわかる。

サクラ

桜はコノハナサクヤヒメが由来の一つとあります。
サは稲の神様をいい、クラはよく聞く磐座の座(くら)。つまり、稲の神様がおわす(宿る)ところということになります。春のおと
ずれに稲の神様が田植えの始まりを知らせるために咲かせる花が桜ということです。



高房社(たかふさしゃ)高房神社(たかふさじんじゃ)

本宮の社殿正面に鎮座する境内社。現在の社殿は元和5年(1619年)の本殿造替とともに造営されたと伝えられる。
祭神の建葉槌神(タケハヅチノカミ)は、建御雷神により派遣されて、従わぬ星神の天香香背男(あめのかがせお)を征服した神(
「日本書紀』のみ)。本殿に詣でる前に参拝するのが古例とされる。那珂市の静神社(常陸国二宮)の主祭神。「建葉槌神」は別称
で、天の岩戸の祭に布を織った天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)のこと。父または兄弟は天日鷲翔矢命で、この神は高御産巣
日神または神産巣日神の数代孫にあたる。


手子后神社(てごさきじんじゃ)

茨城県神栖市波崎8819。社伝では、古くより息栖神社・大洗磯前神社とともに「鹿島神宮の三摂社」と呼ばれた。鹿島史によると
神遊社という別称もある。御祭神は大神の御女手子比売(てごひめ)命。また、『常陸風土記』の「童子女(うない)の松原」に見
られる安是の嬢子(あぜのいらつめ)を祀った社とも言われている。


常陸国風土記(ひたちのくにふどき)


『続日本紀』の和銅六年五月甲子(きのえね)の条(ユリウス暦713年5月2日)に、古代の朝廷が畿内七道諸國郡に地誌をまと
めるように命ずる記録がある。これに従い、諸国の長は、国郡の名、銀銅彩色草木禽獸魚虫等の記録、土地の肥沃、山川原野の名
の由来、古老から聞く伝承などをまとめて報告した。「○○国風土記」の原書。
現存しているのは、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』の5つの写し。
『続日本紀』の原文=五月甲子。《癸亥朔二》制。畿内七道諸國郡■名着好字。其郡内所生。銀銅彩色草木禽獸魚虫等物。具録色目。
及土地沃■。山川原野名号所由。又古老相傳舊聞異事。載于史籍亦宜言上。(参照:日本古代資料本文データ


ひな飾り

ひな祭りは、平安時代に「雛遊び」として男女のお人形を作って飾ったりする「遊び」から広まったようです。
お内裏様(男雛と女雛)を飾る時に迷うのがお人形の位置です。古来日本では左側(向かって右)は右に対して高貴な位置とされる
習わしがありました。男雛は向かって右、女雛は左にあるのが通常でした。明治時代になり、日本は西洋文化を取り入れて対等な関
係を築くことに努めました。大正天皇はその即位のときに、これまでの慣例を変えて向かって左に立ちました。この立ち方が国際的
に通例だったのです。その後、昭和天皇の即位の時(1926 年)に、社団法人日本人形協会が「現代式」として男雛を向かって左に変
えました。それまでの並び方は「古式」と読んでいます。通称では、古式を「京風飾り」、今様を「関東風飾り」とも言います。
お内裏様は男雛と女雛の一対を表す言葉で、「お内裏様とお雛様」はサトウハチロー氏の「うれしいなひなまつり」の歌詞から広ま
ったものです。サトウ氏はこの誤りをずっと後悔していたとのことです。(まとめ:ココシカ)


神籬(ひもろき)

現在一般には、御神木や榊などの常緑樹に麻と紙垂を取り付けた神の依代(よりしろ)をいう。 ※「籬」は漢・呉ともに「リ」と
読み、垣をさす。※「磐座」や「磐境」との関わり



レイライン
英国考古学者ワトキンス氏の著書『(古い直線路)』によって提唱された遺跡の直線的配置性を指すものです。そこでは、leyレイと
類似の語尾をもつ地名のつながりに着目した内容が語られています。光の道は、rayレイを用いるので本来のレイラインとは異なりま
す。