鹿島信仰の起源1

 古代から鹿島神宮の神は高貴な人々からの崇敬を受け、中世から
近世にかけては武家から武神として崇拝され、政治の中心的な位置
にある人々からの信仰を受けてきました。
 一方で近世以降は、庶民のいろいろな願いを叶えたり、災いを払
ってくれる身近な守り神としても東日本の多くの地方で信じられて
います。鹿島の神がなぜ特別な神として信仰されてきたのかを考え
てみると、2 つの要素が見えてきます。

 要素@鹿島神宮の存在
 平安時代にまとめられた『延喜式』の神名帳によると、伊勢・香
取・鹿島と三社だけが「神宮」と呼称されています。古代より神格
の面で特別な社であったことが一つの要素と言えます。

 要素A鹿島の地に対する神聖観
 奈良時代に編纂された『常陸国風土記』の香島の条には「まさに
仙人の住むという幽境の地、また霊異の生まれる神仙の地とでもい
うべきところである。麗しきことの豊かなる地、そのすばらしさは
とても筆舌には尽くしがたい。」と表現されています。
 民俗学者の柳田国男氏は鹿島に注目し、「知りたいと思う事二三」
の中で「弥勒の出現を海から迎えるという信仰遠く隔てた南北の二
地にある」として常陸の鹿島と沖縄の八重山群島を取り上げていま
す。さらに、民俗学者の宮田登氏も『ミロク信仰の研究』の中で鹿
島の地の神聖さを強調されています。
 現代でも、東北地方には鹿島の地を神聖な地と考え、民俗的な行
事を行っている村があります。神だけでなくこの地も神聖な地と考
えられていることも要素と言えます。

 図:茨城県立歴史館刊行『特別展鹿島信仰』
 表:国立歴史民族博物館研究報告
鹿島信仰の起源2

 鹿島信仰と考えられる代表的な事例は、「鹿島さま」「鹿島流し」
「大助人形」「鹿島踊」です。これらの事例は昭和40 年代までは
各地域で継承されてきましたが、次第に取り止めとなったり、近年
地域行事として復活しているものもあります。
 鹿島の神への信仰はどのように広まっていったのか。特別な神格
の鹿島神宮、神聖の地鹿島といった要素に加え、鹿島神宮の分霊社
である鹿島神社が東北地方に多く鎮座していることや、江戸時代の
「鹿島事触」「御師」の活動、「鯰絵」の普及など様々な要因が考
えられます。また、地域の習俗と相まって信仰が地域に根ざしてい
ったのではないでしょうか。
「鹿島さま」や「鹿島流し」が行われている地域は主に東北ですが、
地元の鹿島神社との関係はほとんどなく、特に多くみられる秋田県
でも6 社と神社数は多くありません。 393 社と特に多い茨城県に
は「大助人形」が広まっており、分布域が異なります。「鹿島舟」
や「鹿島さま」が多くみられる秋田県は江戸時代に常陸から転封さ
れた佐竹氏が治めた土地であり、常陸国との関わりの強い地域です。
また、房総半島でみられる「鹿島人形」や「鹿島踊」の分布は「鹿
島事触」「御師」によって広められた可能性があります。 
 
 鹿島踊図(個人蔵)
 図:茨城県立歴史館刊行『特別展鹿島信仰』

鹿島事触と鹿島踊

「鹿島信仰」の広まりは「鹿島事触」「御師」の活動が大きかった
と推測できます。
 事触とは年中の吉凶を卜い広く知らせることで、『常陸国風土記』
に社の周辺には卜氏(うらべうじ)が住み、毎年四月十日に祭りを
行っていたことが記載されているように、古くから卜いが盛んでし
た。江戸時代になると、「鹿島の事触」の活動が広く知られるよう
になります。「鹿島事触」が鹿島大明神の御託宣を告げて歩く時、
民衆を集める手段として「鹿島踊」が用いられていました。
 鹿島踊の姿として、白張の衣装に烏帽子を被り、日形の中に三本
足の霊鳥を描いた御幣を担いで踊る様子が浮世絵などに残されてい
ます。
 江戸時代末期の『新編常陸国誌』の【鹿島踊舞】には「世事談云、
寛永ノ頃、諸国二疾病アリ、常陸国鹿島ノ神輿ヲ所々二コレヲワタ
シ、疫難ヲ祈ラシメ、ソノ患ヲ除ク、ヨツテコレヲイサメテ躍ラシ
ム、世俗鹿島躍ト云テ、諸国二流布ス、コレ鹿島躍ノ始メナリ」と
あります。
 鹿島事触は神宮と関係を持たない偽事触の登場により廃止され、
新たに組織された御師が活動を始めます。しかし、事触の活動は相
変わらず続いていたようです。
  事触の記憶   小野安邦氏『吾邑神野をあるく』から

 小野氏が昭和初期に幕末か明治初年生まれの老婆から何度も聞か
された話として、事触と十人殿原について貴重な話が掲載されてい
ます。
 神野には十人殿原と呼ばれる家がある。当麻(とうま)・行事(
ぎょうじ)・隼人(はやと)・主水(もんど)・左京(さきょう)
・家司(けし)・殿母(とのも)・内記(ないき)・玄蕃(げんば)
・内匠(たくみ)という屋号を持つ十軒の家である。これらの家々
は百姓をしながら、物忌や当禰宜に仕えて自分の役職を果たし、余
暇ができると数人の人達を連れて、物忌みの口を借りて出る「鹿島
様のお告げ」(豊凶・禍福・天変地異等)を全国に広めることを任
務とした。十人殿原が先達となり何人かが組になり、鹿島様のお札
を背負って関八州を踊りながら「今年は鹿島様の藤がよく咲いたか
ら豊作だ」「今年の秋は寒さが早く来るから早生を作れと鹿島様が
いった」などと告げながら御札を配り歩いた。

 この記録は鹿島神宮の物忌が住む神野に生まれ育った小野氏が、
自らも十人殿原の子孫である話者が先祖から受け継いだ話であり、
『新編常陸国誌』の[秋谷部]の記載から見ても、興味深い貴重な
記録と言えます。
  鹿島踊とみろく踊

 鹿島踊は事触発祥で神事に奉納される形で伝承されていますが、
鹿嶋市や千葉県南部でみられるみろく踊は主に女性が祝い事の際に
集まり踊る芸能として伝承されています。
 みろくとは弥勒菩薩のことで、釈迦入滅後56 億7千万の来世に
下生し、釈迦に代わって人々を救済するとされ、その弥勒が現れる
と考えられた地が鹿島でした。そのため、鹿島人形を鹿島舟に乗せ
鹿島に向けて流すような信仰が行われました。
 江戸時代後期の『鹿島志』には、「弥勒踊」が掲載された図が載
せられています。鹿島踊もみろく踊も弥勒歌を伴うことが多く、混
同されやすいと言えます。
 また、「鹿島踊」「みろく踊」と同じ内容の歌を伴いますが、人
間が踊るのではなく、棒の先に付けた人形を踊らせる棒みろくが、
ひたちなか市など県内で見られ、みろく人形の中には「鹿島さま」
「鹿島さん」と呼ばれる人形があり、悪霊や疫病を払う演舞を踊る
と言われています。

『鹿島志』にみえる弥勒踊
「古俗のならいに物の祝いなどあるをり又祈事する日など、すべて
時節に付けつつ老婆らおほく集まり、弥勒歌とて各々声を上げてう
たひ、太鼓をうちて踊れり、手をふりつつ踊るさま、いとをかしく、
中昔の風と見えたり
 

  御師と講

寛文10 年(1670)、神宮に無関係な偽の事触の増加やその行動か
ら、鹿島神宮は「事触」の名称を廃止し、「御師」が組織されるよう
になりました。
『新編常陸国誌』には、「大宮司より簡札を得て、只荷札を壇越の家
に配り、これを以て業とす」と御師の任務が記載されています。
 御師の代表的な家は判太夫・作太夫・長太夫など太夫の屋号を持ち、
江戸や下総・上総など活動領域を持っていました。領域内では鹿島講
や太々神楽講の組織をつくり、その講から参拝希望者を募り、団体参
拝の案内をしていました。御師は組織した講のメンバーを壇越(だん
おつ)・檀家(だんか)と呼び、大きな商家や農家の名主に講元とし
てその取りまとめをお願いしていました。参拝者は御師の家に宿泊し
たため、御師の家は旅館のような宿泊施設も備えていました。

常夜燈にみえる御師の名
 寛文10 年に改変・改組された御師は立原作太夫組と村上長太夫組
に大別され多くは宮中五町内、角内町に居住しました。
 1709 年から1761 年の資料によるともれなく記載されている御
師は15名で、作太夫・長太夫・六太夫・彦太夫・五太夫・五郎太夫
・利太夫・重太夫・権太夫・忠太夫・庄太夫などです。
 鹿島神宮境内にある常夜灯には当時の御師の名が刻まれています。
村上長太夫の名が刻まれ江戸の檀家から寄進された燈が6基と最も多
く、立原作太夫が江戸から3基、大里六太夫が武蔵から3基、松信判
太夫が安房から2基、大里彦太夫が江戸から2基、島田権太夫が上総
から2基と続きます。
 

 写真提供:君津市立久留里城址資料館
 写真提供:茨城県立歴史館
 
悪霊の侵入を防ぐ鹿島さま

「鹿島さま」「鹿島人形」と呼ばれる大きなワラでできた人形をムラ
の入り口や境に立てて、流行り病など悪霊の侵入を防いでくれる風習
が現在でも続いています。
 秋田県の南部と千葉県の上総地方には、「鹿島さま」と呼ばれる大
きなワラ人形を一年通してムラ境に立てて、流行病などの災厄がムラ
に侵入するのを防ぎ止めようとする習俗があります。人形は大きなも
のだと高さ4mを超すものもあり、鹿島神宮の神様にムラの入口や東
西南北のムラ境で立っていただき、悪い物の侵入を阻止してもらうと
考えられています。
 年に一度か二度、村人が総出で作り直し、長い年月同じ場所に立っ
ています。秋田県内では、既に江戸時代の記録に「鹿島さま」が絵と
ともに記録されていました。巨大さ、怖い顔、帯刀などの表現で武神
の鹿島の神を現し、人間の力ではどうしようもなかった病気や災害か
らムラを守る「守護神」になってもらいたかったのでしょう。
 また、千葉県木更津市金田では「綱吊りの鹿島人形」があります。
ワラ縄にワラで作ったエビ・タコ・タワシ・木製のサイコロと男女一
対の鹿島人形が吊り下げられます。また、他地区では侵入する疫病神
にムラの貧しさを訴えるために未完成の草履などを吊り下げます。
 
 
 写真提供:青森県環境生活部県民生活文化課県史編纂グループ
悪霊を鹿島に流す鹿島流し

 青森県や秋田県では一年に一度各家に入り込んだ悪霊や災厄を人形
に背負わせ鹿島に流す「鹿島流し」という行事があります。
「鹿島人形」と呼ばれる武者に似せたワラ人形を作る点では「鹿島さ
ま」の行事と似ています。各家単位で人形を作り、家の玄関や大黒柱
にしばっておき、困りごとや家族の病気を人形に背負わせ、その後各
家から集めた「鹿島人形」を乗せる「鹿島舟」をムラ単位に共同で一
艘作り、ムラの境の川や海から流します。各家庭で作ったものが、ム
ラ単位の行事に繋がる点は「鹿島さま」とは違うと言えます。
 また、「鹿島さま」はワラ人形自体が神に近い存在ですが、鹿島人
形は悪霊を人形に背負わせる人形であるという点から見ると、「ヒト
ガタ」であり、鹿島流しは悪霊を祓うことを目的とします。しかし、
鹿島人形を乗せた「鹿島舟」が漂着したムラでの歓待の様子からみる
と、この行事は悪霊の追放だけではなく、新たな恵みの訪れを願う思
いが込められていることが推察できます。
 青森県で「鹿島流し」を行う人々の話では、「鹿島に流せば汚いも
のが綺麗になる」と考えられ、流した舟が漂着した隣村ではハタハタ
が大漁になると喜ばれています。強い神のいる鹿島に向け流すことは、
神聖な地鹿島に祓いと恵みの期待を込めていたと考えられます。
「鹿島さま」や「鹿島舟」「鹿島人形」「鹿島流し」が東北地方でも
秋田県に特に多い点は、興味深いところです。

流される鹿島舟
 日本海に面した半漁半農の深浦町松神では田植えが終わる6月下旬
に「鹿島祭」を行っていたが、現在は7月にムラの鎮守の祭りと一緒
に行うようになりました。
 着物を着せた木製の人形を7体作り、木製の舟「鹿島丸」に乗せ、
「太刀振り」とともに行列を作り集落を回り、最後は舟と太刀を海に
流します。田の虫よけと大漁・安全を祈願する祭りです。
 

 分布図:『茨城の民族文化』(藤田稔)から転載
人形送りと大助人形

 全国的に「人形送り」と呼ばれる行事があります。小麦ワラや稲ワ
ラで素朴な人形を作り、悪霊を送り出し人々の生活や生命を守る風習
です。
 茨城県内の人形送りの分布をみると2か所の分布に分けられます。
常陸大宮市や常陸太田市・高萩市を中心とする県北部と霞ヶ浦南域の
稲敷市・潮来市・行方市を中心とした県南部です。
 県北部の大助人形は行事名や囃子言葉からみて鹿島信仰と深く結び
ついた人形送りといえます。一方で県南部の人形送りは県北部と違い、
旗指物に鹿島大明神・香取大明神・大戸大明神などと書いており、鹿
島信仰との結びつきだけではない、人形送りの習俗とみられます。
 茨城県では北部を中心にこの人形のことを「大助人形」、「お鹿島
さま」「鹿島大助人形」と呼んでいます。鹿島の神様をお助けする人
形と伝えられ、旧暦の7月10 日に麦ワラで等身大の大助人形を作り、
半紙に武者の顔を描き、篠の刀を差します。人形の腹には団子やまん
じゅうを入れ、夕方になると子供たちが人形を担ぎ出し、ムラの境で
隣村の子供たちと人形を戦わせまんじゅうを奪い合います。その後ム
ラの境に近い田や河原で人形を燃やし、人形についていたまんじゅう
を食べます。人形を燃やした火に当たるとできものができないとも言
われました。
 鹿島の祭神武甕槌神は武神・軍神であり、強さの象徴として「人形
送り」の人形に付加させたと考えられます。地域によって鹿島さまを
お助けする、助けてもらうなど異なる意味を持って作られています。

鹿島さまの由来
「昔、鹿島の神が東北の賊を討とうとして戦争になったとき、兵隊の
数が足りなくて苦労した。それをお助け申すためにこの人形を作った
のだ」「鹿島の神とともに東北で戦った遺風だ」と語られる場合が多
くあります。
 また、行事の際に「おー鹿島のおーすけ、鬼に勝ったみーさいなぁ」
と囃す言葉もそれに関連するといわれています。
 

 写真提供:茨城県立歴史館
県南部の人形送り

 稲敷市では、ワラ人形を「大助人形」と呼びませんが、「鹿島大明
神・香取大明神・息栖大明神・大戸大明神」などと墨書きした旗指物
を付け、刀を差した人形を作ります。半紙に顔を描くところは県北部
と類似しますが、人形同士の戦闘は行わず、川や湖に流したり、ムラ
の境まで送り、ムラの境に立てておく場合もあります。
 また、行方市では2体で対になり、一体はワラつとを背負います。
潮来市も2体で対になり、髪が紐で結ばれます。潮来市古高では2月
1 日に「春祈祷」が行われ、神社の境内ではワラ人形を10 体作り、
夕刻青年たちによって大生原(水原)の境にこの人形がたてられます。
 県北部では7 月10 日に人形が作られますが、県南部では7 月10
日以外の日に作られていました。

 『旧例返田年中行事 総こよみ』(個人蔵)
千葉県の人形送り

 千葉県北部でも、鹿島信仰との関係が考えられる人形送りが行われ
ています。名称は「人形送り」ですが、富里では「香取鹿島」と呼ば
れています。
 
 
 写真:『鹿島町史 第2巻』より
鹿嶋の大助人形

 鹿嶋市内でも大助人形に似た人形が作られていました。悪病流行の
時、人形を稲ワラで作り、赤飯とトウガラシを背負わせ、人形を竹か
篠につきさしてムラ境に立てて送り出す「人形送り」の風習が行われ
ていました。
 昭和40 年代後半頃、鹿嶋市青塚にある天朝井戸地区では毎年12月
に、爪木地区では2月に悪魔払いの行事として行われていました。何
れも村中より悪病が流行らないようにと願った行事でした。
 県北と鹿嶋の人形の違いはまず頭部です。半紙に武者の顔を描き丁
髷(ちょんまげ)のない県北に対し、鹿島では丁髷をつけ、ワラに直
接墨で目や口を描きます。また、篠の刀を2本差し、背中にワラつと
を背負います。県南部にみられる人形との共通点もありますが、地域
ごとに細部の表現は異なります。
 鹿嶋の人形は「大助人形」と呼んでいなかった地区もあるので、県
北の大助人形とは異なる習俗とも考えられますが、疫病退散を願い、
生活や生命を守る意味では共通しています。

爪木の人形送り
 爪木地区では村の法眼様(村の行事の世話役)が人形送りの日を選
定し、各家ごとに年寄りはワラ人形でなでるように左右に振りながら
「悪魔を払い」と三回唱えながら家内安全を祈ります。
 そして午前9時ごろ熊野神社前にワラ人形を持ちより、全員集まっ
たら法眼様を先頭に、村はずれのお伊勢台の麓にある広場に列を作り、
太鼓と鉦を鳴らしながら人形を手にもって歩きます。
 都合で行けない家の人形は門口に立てておくと近所の年寄りが持っ
て行きます。全員広場に着き人形を立て終わったら悪魔払いの家内安
全を祈る念仏を唱えて終わります。
  鹿島大助人形の再現

 鹿嶋市どきどきセンターでは、近年作られることがなくなってしま
った 「大助 人形」を復活させるために、所蔵している大助人形1 体
を解体し調査して、再現してみました。